実録! 尾崎憲一が喪主として葬儀を終えて今日に至るまで!

実録!喪主日記 尾崎憲一が喪主として葬儀を終えるまで

ここで記すのは全て実話。
せれもにスタッフである私、尾崎憲一が34歳にして喪主となり葬儀を終えるまでの体験談である。

父の死から数年が経過するが心の傷は癒えない。
それは私の父に対する負い目が原因なのか。

残りの人生、なんとか踏ん張って前に進むためにもここでは全て本心をさらけ出して綴ろうと思う。
父にガンが見つかり余命を宣告され、喪主として葬儀を終えるまでと、その後の今日に至るまでのわずかなストーリーである。

悲しい思い出ではあるが、少しずつ思い出しながらここで喪主日記~尾崎憲一が喪主として葬儀を終えるまで~を更新していきたいと思う。

私(喪主)と父(故人)のプロフィール

私、尾崎憲一は厳格な父の元に育った。
父が高卒ということもあり、学歴は重要だと言われ続け、学校で出される宿題の他、父の作った宿題を毎日こなすのが私の日課であった。

父はスポーツも好きであった。
野球全盛期の同時、なぜかサッカーが大好きであった。

サッカーは今、人気スポーツの一つとなったが、当時はJリーグも存在せず野球チームに入れなかった子供がやるスポーツというのが私の認識だった。
私は父と野球のキャッチボールをした記憶がなく、サッカーのリフティングやパス交換ばかりをやらされていた。
小6の時にエースで4番バッターだった友人から、サッカーをやっていると足が短くなるぞ!と言われサッカーというスポーツが嫌いになっていった。

中学に入り、暗黙の了解というべきか、サッカー部に入部した。
幼いころよりサッカーをやらされていたということもあり、2年の時には右SB、3年の時にはFWとしてレギュラーになっていた。
市の選抜も数回経験している。

でもサッカーが嫌で嫌で仕方なかった。
高校に入るとそれが加速する!

当然の如くサッカー部に入部をしたのだが、あまりもの練習量と今問題になっている体罰が酷く、2年生になる直前に退部をしてしまった。
それが父の逆鱗に触れる。

私の独断で退部をしたのだが、父はそれを許さなかった。
反抗期ということもあるのだろう。
私も今までの溜まっていたうっぷんが一気に爆発した。

母が間に入りその場は事なきを得たのだが、遺恨とも言うべきしこりが残ってしまった。
私は父と一切の会話をしなくなってしまった。
父が話しかけてきても一切無視をし続けた。

それは私が大学に入学してからも、就職してからも、結婚をしてからも、子供が生まれてからもずっと続くことになる。
父が亡くなったのは私が34歳の時だが、父と口を利かなくなったのは私が16歳の時だったので、父は私が生きてきた半分以上の期間、私と会話をせずに亡くなったことになる。

入学祝いディナーも断った。
広告代理店に就職し、サッカーの広告を担当した時も報告をしなかった。
婚約したことも母を通して知ったはずだ。
共に酒好きであったが、一度もお酒を酌み交わすことができなかった。

父と私はそんな状況であったため、結婚してからも実家に帰省するのは、年に1度あるかないか。
初孫を見に来た時も私は仕事を理由に自分の部屋に閉じこもっていた。
仕事も忙しくなりさらに疎遠になっていった。

何たる偶然!取引先の所長が父の部下だった!

私は相変わらず仕事に明け暮れていた。
リーマンショック直後は不景気ということもあり定時で帰宅できていたのだが、第二次安倍内閣あたりから急激に忙しくなった。

毎日の残業は当たり前、終電を逃してタクシーで帰ることも多かった。
土日出勤も増えていた。

そんなある日、入社依頼かつてないほどの大口の取引先を獲得する。
大手の広告代理店とのコンペも勝ち抜き、ン千万円規模の取引ができるようになった。

私が勤めていた広告代理店は、中小企業。
社内でも当然この話題で持ちきりになった。

実はこの大きな取引ができたのはものすごい偶然であった。
大手企業のある営業所の所長と営業所の予算でできる広告を契約したのだが、出来上がった広告を見てもらった際、お昼時だったので、そのままお昼に同行させていただいた。

その時に余談でサッカーの話になった。

所長「昔、あなたと同じ尾崎さんというすごくサッカーに情熱を燃やしていた人がいたな~」

「父もサッカー大好きでしたよ!私は無理やりサッカーやらされていました。」

所長「尾崎という名前には、サッカー好きが多いんですかね。実は尾崎さんが作ったサッカー部に無理やり入らされたんですよ!上司命令で!」

— その時、父が一時期、土日にサッカーボールとユニフォームを持って出かける姿を思い出す私…。 —

「その尾崎さんという方、下の名前はもしかして秀樹ですか?」

所長「え!?・・・・・・その節は大変お世話になりましたぁ~!!!!!」

「こんな偶然あるんですね!」

所長「私が今の会社に転職する前、○○にいた時に尾崎さん私の上司だったんです。」

確かこんなやり取りだったと思う。
その後、所長から自分の元部下でに当たる本社宣伝部の次長を紹介していただき、コンペに参加。

ほぼ私が勝ち獲るということが既定路線であったのだろう。
見事、勝ち抜き、大・大・大取引に繋げることができたのだ。

この日を境に私は会社の予算を上限なく使えるようになった。
特別ボーナスもあり得ないくらいの額をいただいた。
上司に報告せずに直行・直帰ができるようになった。
これからはゴルフが仕事で必要になるということで、部下に仕事を任せて週に1回、平日にゴルフに行くようになった。
部下の他に、秘書のような専属のアシスタントが2名も付いた。

まさに良いこと尽くしだ!
そうなると、自然と父への感謝の念が湧く。
何より父と話せるきっかけができたのが嬉しかった!

ただ勇気がなく父に直接電話をできずにいた。
あと少しでまとまった休みが取れるお盆だ。

久々に母にお盆に帰省することを伝える。
この日に父と話をしよう!
そう決めていた。

父にガン発覚と余命宣告の電話!

お盆に帰省すると決めてから1週間後くらいだったと思う。
母から連絡があり、父が変な咳をしていて体調が悪くなってしまったので、風邪を移すと悪いから帰ってこない方が良いかもとのこと。
帰省するのをシルバーウイークに延長すると伝えて電話を切った。

それからすぐだった。
忘れもしない、妻の誕生日である8月24日に衝撃の報告を母から受ける!

母からの着信を見た際、最初は毎年妻宛に届く父と母のプレゼントを贈り忘れてしまったという電話だと思っていた。
しかしそんな平和な内容ではなかった。

父がガンに侵されていたことと、父の余命宣告だったのだ!

あらゆる思いと記憶が交錯する。
脳が処理しきれない。

そう言えば随分前だが、ある日、義母が孫を見に我が家に遊びに来た際、父に関する気になることを言っていた。

義母「お父さんすごい痩せていたよ!病気じゃない?」

きっとあの時には…。
もしあの時に父に病院に検査をするように勧めていれば…。

私はその時、家族で妻の誕生日のディナーを味わっていたはずなのだが、何を頼んで食べていたのかを思い出すことができない。
どのように家に帰ったのかも覚えていない。

後から長女から聞いた話では、電話の後、すぐにトイレに行き、一度席に着いてから一口だけ何かを食べ、ケチャップらしきものを口の周りに付けたまま、社会の窓全開で店を後にしたのだとか。
そして店を出る際、店員にお会計は、と聞かれたそうだが大声で「間に合っています!」と答えたようだ。

私は意外と脆いのかもしれない。

続く・・・

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